海外駐在して9か月
2012年3月に到着後、いきなり台中に出張三回。
週に3回以上の宴席。
この時から徐々に昔の飲み方を思い出しつつあったように思う。
大学時代入っていたクラブでも毎週飲み会があり、
すごく弱かったがどうにか逃げ切っていた技を徐々に思い出していった。
4月はほぼ生産を委託した金属加工品に問題発生関連の仕事。
加工レベルが低く問題が多かったのだ。
自分には生産管理ノウハウがないため、総当たりで全品検査した。
そんな思い出しかない。
金属の匂いと、蚊に悩まされた4月。
5月になり納入した日本製品の問題解決と展示会巡りのため日本出張。
日本での食事や飲み会時胃が痛かった思い出がある。
正直なところ食事のマナーの細かい点で他人を見下す文化はあまり好かない。
その後上司の通訳として納入した製品の受け渡しのため
日本から直接アメリカへ飛ぶ出張の予定が
上司が台湾にてトラブル発生の為台湾に戻ることになり
なぜか入社二か月の自分一人でアメリカに行くことになる。
アメリカで納入し仕事を終え台湾に戻ると大学付属の中国語学校に入ることになる。
通学時間が二時間かかるため毎日4時起床、5時発。
12時に会社に入り 17時30分帰宅というスケジュールを
5月から結局6か月間続けることとなった。
大学は9月に一度休暇があり、その期間中に大陸へ出張。
この時は日本語を解さない台湾人と一緒に出張した。
技術に不安のある台湾人と全てに不安のある自分。
問題発生したが、大きなトラブルにはならなかった。
帰還後また仕事と言語学習の毎日。
12月の休暇時にはベトナムへ出張。
こちらは中国語を話すことが出来る上司と一緒だったので要求されるレベルは低かった。
技術面で少しトラブルもあったが結局は問題なく終了できた。
12月11日 母親死去
そのため日本へ一時帰還する。
この際二週間の休暇と航空券を貰った。
12月25日から仕事復帰 といっても数日仕事したら30日より冬期休暇
1月1日まで3連休を貰う。
休暇中カウントダウン、温泉、友人の家へ招待していただいての食事、初詣等
色々と心が平常に戻るよう知り合った皆に手伝ってもらい多少楽になった。
1月2日から仕事が始まり今日は1月5日。
昨晩は日本人客1,中国人1,台湾人1と自分で食事会だった。
半分中国語半分日本語のチャンポンで話していた。
日本を離れてから激動だったように思う。
自分が海外で受け身受け身でありつつ、かつ周りの助けを多大に貰ってであっても
仕事ができていることがまだ信じられないでいる。
まだ全然中国語が聞き取れないからコンビニ行くのも怖いし、給油も怖い。
新しい店も怖いし、よく行く店も怖い。話しかけられるのは怖い。
自分に言ってるのか隣の人に言ってるのかわからないから多人数が怖い。
一対一のほうがまだマシ。たまに話しかけられるエレベーターも怖い。
普通の店でもしっかりメンタルトレーニングして予習して
気分の乗っているときに「いくぞ!」と決めて行く。
たまに想定外の質問されたりして聞き取れないし意味わからないしで涙目になる。
しばらく「もう行くもんか」「もうだめだ」と落ち込む。
それらの痛みを忘れた頃にまた行く。
多少問題があっても殺されることはない
行きづらくなるだけ。
自分の痛みを忘れたころを狙ってまた行く。
2013年もネガティブでありながらも少しだけでも前に行ってみたい。
日本に居る時より、自分がちょっとづつ能力が上がっているのが実感できている。
これはちょっと幸せだ。
もっと成長して他人を助けてあげられるようになりたい。
後日注記
2009年2月にマズローさん引用していいことを書いていた。
人は安全を求めて退却するか,成長を求めて前進するかを選ぶことができる.
成長するには繰り返し選択する必要があり,恐怖は繰り返し克服されなければならない.
アブラハム・マズロー
http://37942.diarynote.jp/200902270207009048/
2012年3月に到着後、いきなり台中に出張三回。
週に3回以上の宴席。
この時から徐々に昔の飲み方を思い出しつつあったように思う。
大学時代入っていたクラブでも毎週飲み会があり、
すごく弱かったがどうにか逃げ切っていた技を徐々に思い出していった。
4月はほぼ生産を委託した金属加工品に問題発生関連の仕事。
加工レベルが低く問題が多かったのだ。
自分には生産管理ノウハウがないため、総当たりで全品検査した。
そんな思い出しかない。
金属の匂いと、蚊に悩まされた4月。
5月になり納入した日本製品の問題解決と展示会巡りのため日本出張。
日本での食事や飲み会時胃が痛かった思い出がある。
正直なところ食事のマナーの細かい点で他人を見下す文化はあまり好かない。
その後上司の通訳として納入した製品の受け渡しのため
日本から直接アメリカへ飛ぶ出張の予定が
上司が台湾にてトラブル発生の為台湾に戻ることになり
なぜか入社二か月の自分一人でアメリカに行くことになる。
アメリカで納入し仕事を終え台湾に戻ると大学付属の中国語学校に入ることになる。
通学時間が二時間かかるため毎日4時起床、5時発。
12時に会社に入り 17時30分帰宅というスケジュールを
5月から結局6か月間続けることとなった。
大学は9月に一度休暇があり、その期間中に大陸へ出張。
この時は日本語を解さない台湾人と一緒に出張した。
技術に不安のある台湾人と全てに不安のある自分。
問題発生したが、大きなトラブルにはならなかった。
帰還後また仕事と言語学習の毎日。
12月の休暇時にはベトナムへ出張。
こちらは中国語を話すことが出来る上司と一緒だったので要求されるレベルは低かった。
技術面で少しトラブルもあったが結局は問題なく終了できた。
12月11日 母親死去
そのため日本へ一時帰還する。
この際二週間の休暇と航空券を貰った。
12月25日から仕事復帰 といっても数日仕事したら30日より冬期休暇
1月1日まで3連休を貰う。
休暇中カウントダウン、温泉、友人の家へ招待していただいての食事、初詣等
色々と心が平常に戻るよう知り合った皆に手伝ってもらい多少楽になった。
1月2日から仕事が始まり今日は1月5日。
昨晩は日本人客1,中国人1,台湾人1と自分で食事会だった。
半分中国語半分日本語のチャンポンで話していた。
日本を離れてから激動だったように思う。
自分が海外で受け身受け身でありつつ、かつ周りの助けを多大に貰ってであっても
仕事ができていることがまだ信じられないでいる。
まだ全然中国語が聞き取れないからコンビニ行くのも怖いし、給油も怖い。
新しい店も怖いし、よく行く店も怖い。話しかけられるのは怖い。
自分に言ってるのか隣の人に言ってるのかわからないから多人数が怖い。
一対一のほうがまだマシ。たまに話しかけられるエレベーターも怖い。
普通の店でもしっかりメンタルトレーニングして予習して
気分の乗っているときに「いくぞ!」と決めて行く。
たまに想定外の質問されたりして聞き取れないし意味わからないしで涙目になる。
しばらく「もう行くもんか」「もうだめだ」と落ち込む。
それらの痛みを忘れた頃にまた行く。
多少問題があっても殺されることはない
行きづらくなるだけ。
自分の痛みを忘れたころを狙ってまた行く。
2013年もネガティブでありながらも少しだけでも前に行ってみたい。
日本に居る時より、自分がちょっとづつ能力が上がっているのが実感できている。
これはちょっと幸せだ。
もっと成長して他人を助けてあげられるようになりたい。
後日注記
2009年2月にマズローさん引用していいことを書いていた。
人は安全を求めて退却するか,成長を求めて前進するかを選ぶことができる.
成長するには繰り返し選択する必要があり,恐怖は繰り返し克服されなければならない.
アブラハム・マズロー
http://37942.diarynote.jp/200902270207009048/
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