年をとると昔話が多くなる。
2002年頃、日本語学校というものの調査をした事がある。
海外在住の父親が日本語学校をやりたいので、
どのようなものか調べてきてくれと言われたので体験入学してみた。
入学先の学校は父の知り合いだった記憶がある。
・教室
教室は基本的に手作り、小学一年生の教室を思い出せる方は、ほとんどそれに近い。
あいうえお表、「あ」で始まる単語、「い」で始まる単語等を絵で表した表などが壁に所狭しと並んでいる教室は先生の卵の方が課外時間に自作するらしい。
例えばアフリカに行って日本からあいうえお表を取り寄せるのもコストが合わないし、
日本でメジャーな「『う』で始まる『うどん』」等の単語は見たことのない人には適していないので
ローカル化するためもあってか自作するらしい。
・授業
最初は単語を絵で書いて、三回言って、
両手でcome here!(どじょうすくい)のようなハンドジェスチャーで
発音を真似てもらうのが一般的らしい。
「りんご、りんご、りんご」(どじょうすくい)
のような流れで授業が進んでいた。
個人的には大阪弁のアクセントを出さないようにするのが難しそうに思えた。
・結局
90分の体験入学だったが、30分で追い出された。
メモを取り過ぎて偵察に来たと思われたらしい。そのとおりなんだけどね。
父親にメモをまとめてメール化して送った記憶がある。
結果としてはうまくいかなかったそうだ。
さすがに聞きかじりで見たこともないのに始めるのは無理だったのだろう。
なぜ急に古い話を思い出したのかを書いて締めたいと思う。
先月今通っている中国語学校から教師のオファーがあったのだ。
世辞も含めてだろうが教師向きらしい。
説教じみた性格だし、先祖代々教師なのでそうなのかなとは思うが
日本語教師というのは海外では底辺職と言われるので、できるだけ避けてみたい。
#日当は2000元(6000円)を提示された。一般台湾人月給75000円と比較するとかなり高い給与のように思う。
上海出張が重なったためどうしてもスケジュールが合わなくて断ったのだが
来月から少し暇になるので考えるだけは考えてみようと思う。
2002年頃、日本語学校というものの調査をした事がある。
海外在住の父親が日本語学校をやりたいので、
どのようなものか調べてきてくれと言われたので体験入学してみた。
入学先の学校は父の知り合いだった記憶がある。
・教室
教室は基本的に手作り、小学一年生の教室を思い出せる方は、ほとんどそれに近い。
あいうえお表、「あ」で始まる単語、「い」で始まる単語等を絵で表した表などが壁に所狭しと並んでいる教室は先生の卵の方が課外時間に自作するらしい。
例えばアフリカに行って日本からあいうえお表を取り寄せるのもコストが合わないし、
日本でメジャーな「『う』で始まる『うどん』」等の単語は見たことのない人には適していないので
ローカル化するためもあってか自作するらしい。
・授業
最初は単語を絵で書いて、三回言って、
両手でcome here!(どじょうすくい)のようなハンドジェスチャーで
発音を真似てもらうのが一般的らしい。
「りんご、りんご、りんご」(どじょうすくい)
のような流れで授業が進んでいた。
個人的には大阪弁のアクセントを出さないようにするのが難しそうに思えた。
・結局
90分の体験入学だったが、30分で追い出された。
メモを取り過ぎて偵察に来たと思われたらしい。そのとおりなんだけどね。
父親にメモをまとめてメール化して送った記憶がある。
結果としてはうまくいかなかったそうだ。
さすがに聞きかじりで見たこともないのに始めるのは無理だったのだろう。
なぜ急に古い話を思い出したのかを書いて締めたいと思う。
先月今通っている中国語学校から教師のオファーがあったのだ。
世辞も含めてだろうが教師向きらしい。
説教じみた性格だし、先祖代々教師なのでそうなのかなとは思うが
日本語教師というのは海外では底辺職と言われるので、できるだけ避けてみたい。
#日当は2000元(6000円)を提示された。一般台湾人月給75000円と比較するとかなり高い給与のように思う。
上海出張が重なったためどうしてもスケジュールが合わなくて断ったのだが
来月から少し暇になるので考えるだけは考えてみようと思う。
・体重が減らないので通勤を歩きに変更しました。
・近所の山に登りに行きました。
・女性関連の話はまったくなし
・最近中国語をさぼり気味
こんなところです。
あんまり何も進展してませんが、日記書くのは日本の伝統らしいので書いています。
やはり、三年目で伸びが止まりますね。
もうひと伸びしたい所です。
直近の予定としては
・設計を覚えようかな?
・日本に行く予定があるかな?
くらいでしょうか
取り急ぎはそんな感じです。
・近所の山に登りに行きました。
・女性関連の話はまったくなし
・最近中国語をさぼり気味
こんなところです。
あんまり何も進展してませんが、日記書くのは日本の伝統らしいので書いています。
やはり、三年目で伸びが止まりますね。
もうひと伸びしたい所です。
直近の予定としては
・設計を覚えようかな?
・日本に行く予定があるかな?
くらいでしょうか
取り急ぎはそんな感じです。
猫を台湾へ連れてくる(台湾到着編)
2013年2月20日 台湾台湾到着。
飛行機下りて後荷物置き場まで通常通りに来る。
その後荷物受取ベルトの近くのキャセイのカウンターまで行き書類一式を見せる。
少し待ってくださいと言われ15分ほど待つとキャセイの方が猫を連れてきてくれたので
それを受け取り、同じフロアの動物検疫所まで持っていく。
持っていく際に出して抱いたりしてはいけないよと忠告される。
が、猫の家がひっくり返って猫の居住スペースが無くなっていたので
猫の家を元に戻し彼女のスペースを確保する。
動物検疫所で猫の首のマイクロチップの確認と猫を出して毛色の確認があり
書類を三枚程度書いた。
ここらへんで到着後一時間経過。
書類書き終わるとそのうちの一枚をくれて
日本に連れて帰る際はまた必要だよと教えてもらえる。
バイバイと言われたので、終わったと認識し通関手続き。
猫を出して見せて下さいと言われたので出したら隣を通ったスチュワーデスにガン見された。
通関の方はキャリー内のホッカイロを確認していた。
それから外に出ると自由の身。
半日近く監禁されると思っていたので拍子抜けだった。
一週間後電話がかかってきて家でちゃんと飼っているか確認しに行きたいとの事。
90日以内に在宅確認する義務があるようです。
在宅確認はまだ来ていないので来たらまた書きます。
飛行機下りて後荷物置き場まで通常通りに来る。
その後荷物受取ベルトの近くのキャセイのカウンターまで行き書類一式を見せる。
少し待ってくださいと言われ15分ほど待つとキャセイの方が猫を連れてきてくれたので
それを受け取り、同じフロアの動物検疫所まで持っていく。
持っていく際に出して抱いたりしてはいけないよと忠告される。
が、猫の家がひっくり返って猫の居住スペースが無くなっていたので
猫の家を元に戻し彼女のスペースを確保する。
動物検疫所で猫の首のマイクロチップの確認と猫を出して毛色の確認があり
書類を三枚程度書いた。
ここらへんで到着後一時間経過。
書類書き終わるとそのうちの一枚をくれて
日本に連れて帰る際はまた必要だよと教えてもらえる。
バイバイと言われたので、終わったと認識し通関手続き。
猫を出して見せて下さいと言われたので出したら隣を通ったスチュワーデスにガン見された。
通関の方はキャリー内のホッカイロを確認していた。
それから外に出ると自由の身。
半日近く監禁されると思っていたので拍子抜けだった。
一週間後電話がかかってきて家でちゃんと飼っているか確認しに行きたいとの事。
90日以内に在宅確認する義務があるようです。
在宅確認はまだ来ていないので来たらまた書きます。
猫を台湾へ連れてくる(日本側出発編)
2013年2月15日 台湾当日朝動物検疫場所まで書類と猫を連れて行く
関西空港では8時30分頃から獣医さんがスタンバイしてくれているようだ。
30分程度で診察終了。
具体的には
・書類に名前記入
・猫の色を確認
・猫の首に入れたマイクロチップの読み取り
・書類確認
以上を15分程度で終了。
その後書類作成していただいたものを持って空港へチェックイン。
キャセイパシフィックを使用したが、搭乗者追加の手荷物扱いとなるため
追加料金として5000円弱の支払いのみで済んだ。
#要事前予約
猫とはチェックインカウンターでお別れ。
キャリーバッグには張るタイプのホッカイロを底面に貼り、その上に毛布を置いて
その後猫の小さな部屋も一緒に入れておいた。
これは失敗でしたが
猫を台湾に連れてくる台湾到着編に続く
関西空港では8時30分頃から獣医さんがスタンバイしてくれているようだ。
30分程度で診察終了。
具体的には
・書類に名前記入
・猫の色を確認
・猫の首に入れたマイクロチップの読み取り
・書類確認
以上を15分程度で終了。
その後書類作成していただいたものを持って空港へチェックイン。
キャセイパシフィックを使用したが、搭乗者追加の手荷物扱いとなるため
追加料金として5000円弱の支払いのみで済んだ。
#要事前予約
猫とはチェックインカウンターでお別れ。
キャリーバッグには張るタイプのホッカイロを底面に貼り、その上に毛布を置いて
その後猫の小さな部屋も一緒に入れておいた。
これは失敗でしたが
猫を台湾に連れてくる台湾到着編に続く
猫を台湾へ連れてくる(航空会社編)
2013年1月11日 台湾母が飼っていた猫を台湾に連れてくることになった。
妹の家庭は子3歳、犬三匹で正直飼うことが難しいためだ。
移住を決めたのが12月11日。
母の葬式等色々あって遅くなり、狂犬病注射を打ったのが12月25日。
2月19日の飛行機で移住予定だ。
まず第一に行う事は猫を獣医に連れて行き、麻酔を打ってもらった上で
・マイクロチップ
・狂犬病予防注射(非活性)
の注射をしてもらう。
マイクロチップは郵送登録式のために登録に時間がかかり、
狂犬病注射は注射後30日以上一年未満でないと搬送不可能のためだ。
その後は以下四か所と常時連絡を取り合うこととなる。
・獣医
・台湾側検疫
・日本側検疫
・航空会社
簡単だったのは航空会社だった。
自分が日本から台湾に行く便に一緒に載せてもらう予約が出来れば
#必ず予約が必要、自分は航空券購入後すぐに予約しました。
アジア間であれば 1キロあたり、10USD程度で運んでもらうことが出来る。
#カーゴ+猫体重で6~8kg程度。つまり、8000円以下で運んでもらえる。
別途航空便を頼むと40000円前後掛るため、できるかぎり一緒に移動したい。
日本側検疫はANIPAS、台湾側検疫は犬猫進口同意文件線上申請を利用した。
どちらもオンライン申請システムで、申請時に検疫場も予約できる。
日本側に必要な書類に
・台湾側受け入れ許可証
・七日間以内に発行された健康診断書
が含まれるため、日本側申請は最後回しとなる。
これにより台湾側申請を優先する。必要な書類は
・狂犬病予防注射済書類(英文)を撮った写真
・六か月以上飼っていた証明(英文)を撮った写真
・パスポートを撮った写真
他 搭載機及び猫情報詳細
以上。
すべて揃えてから5日間の審査期間がある。
今審査期間中だ。
問題なく終わるように進めていきたい。
妹の家庭は子3歳、犬三匹で正直飼うことが難しいためだ。
移住を決めたのが12月11日。
母の葬式等色々あって遅くなり、狂犬病注射を打ったのが12月25日。
2月19日の飛行機で移住予定だ。
まず第一に行う事は猫を獣医に連れて行き、麻酔を打ってもらった上で
・マイクロチップ
・狂犬病予防注射(非活性)
の注射をしてもらう。
マイクロチップは郵送登録式のために登録に時間がかかり、
狂犬病注射は注射後30日以上一年未満でないと搬送不可能のためだ。
その後は以下四か所と常時連絡を取り合うこととなる。
・獣医
・台湾側検疫
・日本側検疫
・航空会社
簡単だったのは航空会社だった。
自分が日本から台湾に行く便に一緒に載せてもらう予約が出来れば
#必ず予約が必要、自分は航空券購入後すぐに予約しました。
アジア間であれば 1キロあたり、10USD程度で運んでもらうことが出来る。
#カーゴ+猫体重で6~8kg程度。つまり、8000円以下で運んでもらえる。
別途航空便を頼むと40000円前後掛るため、できるかぎり一緒に移動したい。
日本側検疫はANIPAS、台湾側検疫は犬猫進口同意文件線上申請を利用した。
どちらもオンライン申請システムで、申請時に検疫場も予約できる。
日本側に必要な書類に
・台湾側受け入れ許可証
・七日間以内に発行された健康診断書
が含まれるため、日本側申請は最後回しとなる。
これにより台湾側申請を優先する。必要な書類は
・狂犬病予防注射済書類(英文)を撮った写真
・六か月以上飼っていた証明(英文)を撮った写真
・パスポートを撮った写真
他 搭載機及び猫情報詳細
以上。
すべて揃えてから5日間の審査期間がある。
今審査期間中だ。
問題なく終わるように進めていきたい。
海外駐在して9か月
2012年3月に到着後、いきなり台中に出張三回。
週に3回以上の宴席。
この時から徐々に昔の飲み方を思い出しつつあったように思う。
大学時代入っていたクラブでも毎週飲み会があり、
すごく弱かったがどうにか逃げ切っていた技を徐々に思い出していった。
4月はほぼ生産を委託した金属加工品に問題発生関連の仕事。
加工レベルが低く問題が多かったのだ。
自分には生産管理ノウハウがないため、総当たりで全品検査した。
そんな思い出しかない。
金属の匂いと、蚊に悩まされた4月。
5月になり納入した日本製品の問題解決と展示会巡りのため日本出張。
日本での食事や飲み会時胃が痛かった思い出がある。
正直なところ食事のマナーの細かい点で他人を見下す文化はあまり好かない。
その後上司の通訳として納入した製品の受け渡しのため
日本から直接アメリカへ飛ぶ出張の予定が
上司が台湾にてトラブル発生の為台湾に戻ることになり
なぜか入社二か月の自分一人でアメリカに行くことになる。
アメリカで納入し仕事を終え台湾に戻ると大学付属の中国語学校に入ることになる。
通学時間が二時間かかるため毎日4時起床、5時発。
12時に会社に入り 17時30分帰宅というスケジュールを
5月から結局6か月間続けることとなった。
大学は9月に一度休暇があり、その期間中に大陸へ出張。
この時は日本語を解さない台湾人と一緒に出張した。
技術に不安のある台湾人と全てに不安のある自分。
問題発生したが、大きなトラブルにはならなかった。
帰還後また仕事と言語学習の毎日。
12月の休暇時にはベトナムへ出張。
こちらは中国語を話すことが出来る上司と一緒だったので要求されるレベルは低かった。
技術面で少しトラブルもあったが結局は問題なく終了できた。
12月11日 母親死去
そのため日本へ一時帰還する。
この際二週間の休暇と航空券を貰った。
12月25日から仕事復帰 といっても数日仕事したら30日より冬期休暇
1月1日まで3連休を貰う。
休暇中カウントダウン、温泉、友人の家へ招待していただいての食事、初詣等
色々と心が平常に戻るよう知り合った皆に手伝ってもらい多少楽になった。
1月2日から仕事が始まり今日は1月5日。
昨晩は日本人客1,中国人1,台湾人1と自分で食事会だった。
半分中国語半分日本語のチャンポンで話していた。
日本を離れてから激動だったように思う。
自分が海外で受け身受け身でありつつ、かつ周りの助けを多大に貰ってであっても
仕事ができていることがまだ信じられないでいる。
まだ全然中国語が聞き取れないからコンビニ行くのも怖いし、給油も怖い。
新しい店も怖いし、よく行く店も怖い。話しかけられるのは怖い。
自分に言ってるのか隣の人に言ってるのかわからないから多人数が怖い。
一対一のほうがまだマシ。たまに話しかけられるエレベーターも怖い。
普通の店でもしっかりメンタルトレーニングして予習して
気分の乗っているときに「いくぞ!」と決めて行く。
たまに想定外の質問されたりして聞き取れないし意味わからないしで涙目になる。
しばらく「もう行くもんか」「もうだめだ」と落ち込む。
それらの痛みを忘れた頃にまた行く。
多少問題があっても殺されることはない
行きづらくなるだけ。
自分の痛みを忘れたころを狙ってまた行く。
2013年もネガティブでありながらも少しだけでも前に行ってみたい。
日本に居る時より、自分がちょっとづつ能力が上がっているのが実感できている。
これはちょっと幸せだ。
もっと成長して他人を助けてあげられるようになりたい。
後日注記
2009年2月にマズローさん引用していいことを書いていた。
人は安全を求めて退却するか,成長を求めて前進するかを選ぶことができる.
成長するには繰り返し選択する必要があり,恐怖は繰り返し克服されなければならない.
アブラハム・マズロー
http://37942.diarynote.jp/200902270207009048/
2012年3月に到着後、いきなり台中に出張三回。
週に3回以上の宴席。
この時から徐々に昔の飲み方を思い出しつつあったように思う。
大学時代入っていたクラブでも毎週飲み会があり、
すごく弱かったがどうにか逃げ切っていた技を徐々に思い出していった。
4月はほぼ生産を委託した金属加工品に問題発生関連の仕事。
加工レベルが低く問題が多かったのだ。
自分には生産管理ノウハウがないため、総当たりで全品検査した。
そんな思い出しかない。
金属の匂いと、蚊に悩まされた4月。
5月になり納入した日本製品の問題解決と展示会巡りのため日本出張。
日本での食事や飲み会時胃が痛かった思い出がある。
正直なところ食事のマナーの細かい点で他人を見下す文化はあまり好かない。
その後上司の通訳として納入した製品の受け渡しのため
日本から直接アメリカへ飛ぶ出張の予定が
上司が台湾にてトラブル発生の為台湾に戻ることになり
なぜか入社二か月の自分一人でアメリカに行くことになる。
アメリカで納入し仕事を終え台湾に戻ると大学付属の中国語学校に入ることになる。
通学時間が二時間かかるため毎日4時起床、5時発。
12時に会社に入り 17時30分帰宅というスケジュールを
5月から結局6か月間続けることとなった。
大学は9月に一度休暇があり、その期間中に大陸へ出張。
この時は日本語を解さない台湾人と一緒に出張した。
技術に不安のある台湾人と全てに不安のある自分。
問題発生したが、大きなトラブルにはならなかった。
帰還後また仕事と言語学習の毎日。
12月の休暇時にはベトナムへ出張。
こちらは中国語を話すことが出来る上司と一緒だったので要求されるレベルは低かった。
技術面で少しトラブルもあったが結局は問題なく終了できた。
12月11日 母親死去
そのため日本へ一時帰還する。
この際二週間の休暇と航空券を貰った。
12月25日から仕事復帰 といっても数日仕事したら30日より冬期休暇
1月1日まで3連休を貰う。
休暇中カウントダウン、温泉、友人の家へ招待していただいての食事、初詣等
色々と心が平常に戻るよう知り合った皆に手伝ってもらい多少楽になった。
1月2日から仕事が始まり今日は1月5日。
昨晩は日本人客1,中国人1,台湾人1と自分で食事会だった。
半分中国語半分日本語のチャンポンで話していた。
日本を離れてから激動だったように思う。
自分が海外で受け身受け身でありつつ、かつ周りの助けを多大に貰ってであっても
仕事ができていることがまだ信じられないでいる。
まだ全然中国語が聞き取れないからコンビニ行くのも怖いし、給油も怖い。
新しい店も怖いし、よく行く店も怖い。話しかけられるのは怖い。
自分に言ってるのか隣の人に言ってるのかわからないから多人数が怖い。
一対一のほうがまだマシ。たまに話しかけられるエレベーターも怖い。
普通の店でもしっかりメンタルトレーニングして予習して
気分の乗っているときに「いくぞ!」と決めて行く。
たまに想定外の質問されたりして聞き取れないし意味わからないしで涙目になる。
しばらく「もう行くもんか」「もうだめだ」と落ち込む。
それらの痛みを忘れた頃にまた行く。
多少問題があっても殺されることはない
行きづらくなるだけ。
自分の痛みを忘れたころを狙ってまた行く。
2013年もネガティブでありながらも少しだけでも前に行ってみたい。
日本に居る時より、自分がちょっとづつ能力が上がっているのが実感できている。
これはちょっと幸せだ。
もっと成長して他人を助けてあげられるようになりたい。
後日注記
2009年2月にマズローさん引用していいことを書いていた。
人は安全を求めて退却するか,成長を求めて前進するかを選ぶことができる.
成長するには繰り返し選択する必要があり,恐怖は繰り返し克服されなければならない.
アブラハム・マズロー
http://37942.diarynote.jp/200902270207009048/